1980年、中国・上海に生まれたヤオ・ミン(姚明)は、アジア出身選手の史上最高のNBAプレーヤーとして広く知られています。
身長229センチ・体重141キロという規格外の体格を持ちながら、繊細なシュートタッチとインテリジェントなプレーでリーグを席巻した「歩く万里の長城」。
怪我に翻弄されながらも8シーズンにわたりヒューストン・ロケッツで活躍し、アジアとNBAを結ぶ架け橋となった伝説のセンターのキャリアを振り返ります。
バスケットボール一家に生まれた宿命:幼少期とCBA時代
ヤオ・ミンは、父・姚志遠(身長208センチの元バスケットボール選手)と母・方鳳娣(身長188センチ、中国ナショナルチームの元キャプテン)という生粋のバスケットボール一家に誕生しました。
9歳でバスケットボールを始めると、10歳にして身長は早くも180センチに達します。
13歳でユース選抜に選ばれ、17歳のとき地元の上海シャークスと契約して中国プロリーグ(CBA)の選手となりました。
CBAでの成長は目覚ましく、1997-98シーズンのルーキーイヤーから平均10得点・9リバウンドを記録して頭角を現します。
2000-01シーズンには平均27得点・19リバウンドという圧倒的な数字を残し、リバウンド・ダンク・シュートブロックの三冠王に輝いた上、20歳でリーグMVPを獲得。
同年のシドニーオリンピックにはチーム最年少で中国代表として出場し、五輪で存在感を示し、後に「歩く万里の長城」と称される存在となりました。
史上初の快挙:NBAドラフト全体1位指名(2002)
CBAで達成できることをほぼ成し尽くしたヤオは、世界最高峰の舞台への挑戦を決意します。
上海シャークスをCBAの頂点に導いた2002年、ヤオはNBAドラフトへのエントリーを決断します。
同年のNBAドラフトで、ヒューストン・ロケッツから1巡目全体1位に指名されました。
アメリカの高校・大学でのプレー経験を持たない外国籍選手がドラフト全体1位に輝いたのはNBA史上初めてのことであり、史上3人目の中国人NBA選手として大きな歴史の扉を開きます。
しかしアメリカのメディアや識者の間には当初、懐疑的な声も少なくありませんでした。
「アジア人がNBAのトップで戦えるのか」という疑問が渦巻く中、ヤオはルーキーシーズンから2シーズン連続で全試合に出場し、平均13.5得点・8.2リバウンド・1.8ブロックという及第点以上の成績を収めます。
特に注目を集めたのは、2003年1月にシャキール・オニールと初めて対戦した試合です。
当時レイカーズでリーグ最強のセンターとして君臨していたオニールの出だし3本のシュートを立て続けにブロックしたヤオの姿は、中国国内で実に2億人が視聴したとされ、世界を驚かせました。
ルーキーながらファン投票でオールスターのスターターに選出されたのも、1995年のグラント・ヒル以来の快挙として記録されています。
Tマック時代の輝きと怪我との戦い(2004-2009)
2004-05シーズン、2年連続でNBAの得点王に輝いていたトレイシー・マグレディがロケッツに加入し、ヤオとの強力なデュオが誕生します。
二人の看板選手の活躍でチームはレギュラーシーズン勝率6割という高水準を達成しました。
ヤオ自身も2005-06シーズンには平均20得点・10リバウンドを突破し、オールNBAチームにも繰り返し選ばれるなど、NBAを代表するセンターとしての地位を確固たるものにしていきます。
しかしこの頃から足の故障が頻発するようになり、毎シーズン20〜30試合程度の欠場が常態化します。
マグレディ自身も怪我がちだったため、二人が同時にコートに立てた試合数は限られており、ロケッツはプレーオフで3度1回戦突破を果たせないまま足踏みを続けました。
コート外でも存在感を発揮し続けたヤオは、2004年のアテネオリンピックでは中国選手団の開会式旗手を務め、1試合平均20.7得点・大会最多リバウンドでチームをベスト8へ導きます。
2009年には財政難に苦しんでいた古巣・上海シャークスを自費で買収するという、選手としての枠を超えた行動で中国国内に大きな衝撃を与えました。
頂点と悲劇:初のプレーオフ突破と相次ぐ負傷(2009-2011)
マグレディが移籍した2008-09シーズン、チームのエースとしてヤオはついにプレーオフ1回戦を突破するという悲願を達成します。
ポートランド・トレイルブレイザーズとのシリーズを制した末、カンファレンス・セミファイナルではコービー・ブライアントとパウ・ガソルを擁するロサンゼルス・レイカーズに敗れて終幕となりましたが、「ヤオ・ミンが個人として持てる力を出し切った」とアメリカのメディアが絶賛するシーズンとなりました。
しかしシリーズ途中、左足首の疲労骨折という深刻な診断が下り、2009-10シーズンは全休を余儀なくされます。
翌2010-11シーズンにようやく復帰したものの、開幕からわずか5試合目に同じ箇所を再び痛めて残り全試合を欠場。
度重なる骨折と長期にわたるリハビリを経て、ヤオは2011年7月に31歳での現役引退を発表しました。
残した数字と引退後の歩み
NBA通算8シーズン、486試合の出場で記録したスタッツは平均19.0得点・9.2リバウンド・1.9ブロック・フィールドゴール成功率52.4%・フリースロー成功率83.3%。
ビッグマンとしては破格のフリースロー精度が示す通り、ゴール下の力強さと柔らかなシュートタッチを兼ね備えた稀有なセンターでした。
ゴール下の独特な動きは「上海シェイク」と呼ばれ、相手ディフェンスを翻弄し続けました。
オールスターには8回選ばれ、オールNBAチームには5度名を連ねています。
背番号11はロケッツの永久欠番として球団の天井に掲げられています。
引退後は古巣・上海シャークスのオーナーとして球団運営に携わる傍ら、野生動物保護など幅広い社会活動にも積極的に取り組みます。
2016年にはアレン・アイバーソンやシャキール・オニールとともに、バスケットボール殿堂入りを果たしました。
また中国バスケットボール協会の会長を務めるなど、競技の普及と発展に尽力し続けています。
まとめ
ヤオ・ミンは、アジア出身選手の可能性を世界に証明した先駆者です。
NBA史上初となる外国籍選手への全体1位指名という歴史的快挙を成し遂げ、シャックの連続ブロックから始まった数々の伝説的シーンを積み重ねながら、怪我というどうにもならない壁に阻まれて31歳でコートを去ることになりました。
健康に恵まれていればどこまでの境地に至れたか、今なお語られるほどの才能の持ち主でした。
それでもその名はリーグに永遠に刻まれ、彼が切り拓いた道は八村塁や渡邊雄太をはじめとするアジア系選手たちへと確かに受け継がれています。
「歩く万里の長城」が示した夢の大きさは、時代を超えて多くの人々を鼓舞し続けています。




















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